「信州 塩をめぐる冒険」の大町エリアでは、これまで「塩の道ちょうじや」を会場に、塩や海産物がどこの海からどの道を通り、どうやって運ばれてきたのか、昔の地図や現在の地図を見ながら2回にわたって学習してきました。7月15日のフィールドワークでは、実際に海へと続く塩の道を歩いたり、そこに建つ石碑や石仏を見てきました。講師は引き続き、元大町市教育長の荒井和比古先生です。
みんなを乗せてちょうじやを出発したジャンボタクシーは、すぐに停車。昔の道には石塔や石仏があると教わっていましたが、さっそく大きな石碑が立っています! 人の背丈ほどある大きな石碑は「馬頭観音」。その前の石碑は「庚申塔」で、「右 善光寺道」「左 越後道」の字も見えます。
「延享元年」とも刻んであり、荒井先生が「延享元年って、何年?」。渡された年号早見表で調べると西暦1744年です。「今から何年前?」「今は2018年。そこから1744を引くと…?」。同行した、ちょうじやの西澤聖美さんがスマホの電卓で手助けしてくれ「274年前!」。その当時、ここを通った人たちに、日本海側の越後(新潟)につながる塩の道「千国街道」と、善光寺の参拝につながる「善光寺街道」との分かれ道を教えていた道しるべです。
そこから「塩の道」を少し歩いたところにも、石で造られた大きな大黒天様が祀られていました。建立は「嘉永5年」、高遠領非持村の石工、伊藤徳十、留十が作ったと書かれています。ここでも早見表で西暦1852年と確認。白地図で場所も確認し、印をつけます。
再び車に乗り込み、「佐野坂西国三十三番観音像」のある青木湖畔へ。車が通る道から少し入ったところに、石の観音像が立っています。
最初に見た石仏は「文政十二 丑年」、1829年の建立です。観音様の足元には番号も刻まれているので「三十三番のうち、これは何番かな?」と確認しようとしますが、苔に隠れて見えません。手で苔を除いてもわからず、とりあえず隣の石仏へ。
隣の石仏は「十九番」。「じゃあ、さっきのは十八番か二十番?」。荒井先生から「二十は『廿、廾』などと書くこともある」と教わり、どうやら読めなかった文字は「廿」で、二十番だと分かりました。
石仏の後ろに並ぶように高い木が茂っています。雪深いこの地では石仏が雪に埋もれてしまうこともあるため、目印になるよう木を植え、その下に石仏を立てたのだそうです。荒井先生はその並んだ木と、みんながいる場所を挟んで向かい合うように立ち並ぶ木を指し、「当時の道の幅は、この木と木の間くらい。せいぜいこんなもの」と話します。
塩や海産物の俵を二つも背負った牛が通れば、それだけでいっぱいになりそうな狭い道。冬は雪が多くて牛が通れないため、人が荷物を背負って運び、夏は人や牛を襲う「うるり」というアブが飛ぶ大変な道。
そんな説明に追い打ちをかけるように「昔、この道を通った男の人がお葬式の行列に遭遇し、驚いて木の上に隠れた。その下で人々がお経をあげ、棺桶を置いて行ってしまった。と、残された棺桶から死者が這い出し、男を見つけると『見たな~!!』と追いかけてきた…!」と、荒井先生から怪談話が!みんな、神妙な顔で聞いていましたよ。
峠を少し下ると、斜面の上にも石仏があり「大変そうだけど、誰か行ってくれるかな?」と荒井先生が呼び掛け。男の子2人が颯爽と登り、みんなを代表して石仏の裏の文字を確認したり、書き写したりしてくれました。
「高遠 片倉村石工 伊藤堅吉」 石仏を制作した人の名前です。
三十三体の観音様は、信州と海とをつなぐ「塩の道」を歩く人の道しるべになるだけでなく、大変な道中を「無事に帰れますように」と人々がお祈りした、神様でもあったのだそうです。またそれらの観音像は西国(近畿)の有名なお寺の仏様をうつしたものといわれ、この道を巡礼する人たちもいたそうです。
子どもたちからは「こんな険しい道を、大変な思いをしながら、みんなのために一生懸命塩を運んでいたんだ。すごい」と感心する声が上がり、観音様に向かって手を合わせる姿もありました。
「古い時代の事を想像することは難しいが、大変な世の中にいた祖先のおかげで、今のみんながあることを感じてほしい」と荒井先生。ちょうじやに戻り「難しい話が多かったと思うけど、頑張って勉強してくれてうれしい」と笑顔で子どもたちに語りかけました。
地図で見たり話を聞いたりして、部屋の中で学んできた塩の道を実際に歩き、道しるべや石仏に触れ、昔の苦労などを感じることができました。海には「何度か行ったことがある」「1回しか行ったことがない」という子供たち。富山では、実際の海で、たくさんの事を実感してほしいですね。